俳優は身体で想像する

事象の研究 デービッドジンダー

「これはミステリーだ。」と何か思いがけないことがあるたび、『恋に落ちたシェイクスピア』のジェフリーラッシュが演じる劇場支配人はいうのであった。肩をすくめ、弱々しく申し訳なさそうな笑みを浮かべ、説明不可能なことを容易に説明し相手を煙に巻いてしまうのだ。題名にあるような謎めいたマイケルチェーホフの言葉は多くの難しい問いを投げかけ、そんな風に人の肩をすくませたり、笑みを浮かばせたり、あっさりした弁解をする。体で想像するというのはどういうことだろう?つまるところ、我々の知る限り想像は頭でされるものである。このような体での想像が可能であるとすれば、それはどのように行われるのであろうか?想像が現れるために、必要な条件は何であろうか?現れるとき、想像力と体との間の交流の本質とはなんであろうか?

 私たちがラッシュ氏のシンプルな答えを採用して、困難を避けたいと思う誘惑に屈する前に、重要な事実を肝に銘じておかないといけない。チェーホフが演技テクニックに関して記述した全ては、自分自身の、全ての点において素晴らしいクリエイティブプロセス(創造的プロセス)についての、骨の折れるきわめて詳細な研究の結果だということだ。この事実が示しているのは、体が想像することや俳優が体で想像するという発想は、疑いもなく俳優の創造性への彼の研究の実践的な成果の一つだということである。これだけでも、彼の言葉によってもたらされた謎について調査する十分な理由になりうる。さらに言えば、この事象に関しての、私自身の30年以上に及ぶ、俳優、演技トレーナー、演出家としての実験的なリサーチは、多大な実践的な示唆を与えてくれていると信じている。この共生は存在して、そして我々の目的にとって何より重要なのは、それが鍛錬でき、様々な演劇の手法に取り組む俳優にとっても実践的で直ちに使えるツールになりえるということだ。たとえどんなに簡潔的であっても、こうした全てはこの問題を掘り下げていく強い動機を与えてくれる。もしそれが失敗したとしても、ラッシュ氏の言い訳の後に続くロジェ ヴィトラックの言葉を使うとしよう。それは「これらの摩訶不思議が私たちの理解を超えるのであれば、私たちがそれを起こしたフリをしよう。」

 

 チェーホフ著作の「演技術について」の前述の引用の全文はこのようになる。

 

「俳優は体で想像をする。内的なイメージに反応すると、ジェスチャーしたり動いてしまったりすることは不可避である」(太字はデービッドジンダーによって引かれている。)

 

 チェーホフは、人間の心のこの非常に重要な機能と、それを含む身体との間の関係の必要性や不可避な性質について、この一文を超えてほとんど語っていない。

 しかしながら、チェーホフの著作や講演を聴いてみると、役者の芸術についての彼の理解の土台を作り上げているのは、動く体とクリエイティブな想像力とのその深淵なつながりであると、彼のテクニックの全般に渡りそれが暗に示されているようである。明確に、自身のクリエイティブなワークについての研究によりチェーホフは、人のマインドの想像する機能と身体は「一体」(oneness)なのだと主張するようになった。役者が体と想像力のつながりが「不可避」という理由は、人体のこの二つの要素は実は切っても切れないものであり、人間の存在の単一の組織原則(ボディマインド“bodymind”)内において、それらは互恵的で相互的に協力しあいながら存在しているからである。つまるところ、この行動とイメージと実質的に自然と起こる関係において、俳優が体を使って想像するという結論になるのである。

 この「ボディマインド」は分けることの出来ない協働関係であるという考えは人体の日常的な機能と関係していることで、私が挙げる問いは極めて詳細であり、創造性のある一般的な観点、とりわけパフォーマンスにおいてクリエイティブな想像力のための触媒として動く体についての発想に関係している。この議論をシンプルな形式とするため、ある状況において自明であることにした、演技トレーニングでの私の経験が教えてくれたものから始めよう。その状況とは、前提としていつでも適切な状態(心と身体の状態、ワークショップのスペースなど)があり、俳優が、チェーホフが言う「境域を超えた」又はユージェニオバルバの言う「非日常的な(extra-ordinary)」パフォーマンスをする状態である。これらの基本的な状態により、動く体は無限のイメージを創り、意識へと引き上げてくれる。そして俳優が足をつかっているときにかぎり、これらのイメージは俳優の体の中でこだまし、そして体はさらなるイメージを創る、そうして永遠に続いていくのである。これらのイメージの本質を明らかにするのは不可能であるが、しかし多くの部分は夢や白昼夢、記憶、「歴史的な」イメージ、偽の記憶(記憶していると思っていて、実際には起こってないこと)、純粋な抽象的な幻想、こうした想像の中に存在しうるものの合成から成り立っている。結婚式や交通事故や卒業式といった実際の出来事のような「リアル」なものと同じように、本を読んだり映画を見たりといった完全に「想像力を使った」活動が視認できる記憶に多くの材料を授けてくれ、そうして想像して感じる体験を得るようになるのだ。私たちの貯蔵庫は膨大であり、実は私たちは現実的なこと、二次的なこと(本や映画)、想像したこと、経験したこと、すべてを思い出すことができる。使えうるイメージの幅は限りがないのである。私たちのマインドが活発で柔軟である限り、イメージの貯蔵庫が際限なく成長を続けるということを考慮に入れれば、これはさらに事実となるのである。

 

 この込み入った難題から手がかりを見つけ出すことから始め、影響を与えたキースジョンストンの即興(インプロビゼーション)についての著作「IMPRO!」からのトレーニングの箇所を見てみよう。自然発生(Spontaneity)についての章で、ジョンストンが生徒の一人との会話を記録している。

 

「悲しくなって。」と私。

「どういう意味ですか、悲しくなれ、とは?」

「ただ悲しくなればいいんだ。そうしたらどうなるか試してみよう。」

「だけど悲しくなる動機は?」

「ただ悲しくなるのさ。泣いてごらん、そしたらなぜ泣くのかわかる。」

 

 その学生は私をからかうことを決めたようです。

 

「それではちっとも悲しくないね。君はふりをしているだけだ。」

「振りをしろと言ったじゃありませんか。」

「腕を上げてごらん。よし、じゃなんで君は今、腕を上げたの?」

「そう言われたからですが。」

「うん、でも君が腕をそのように上げるのはどんなとき?」

「地下鉄のつり革につかまるときとか。」

「じゃあ、今、腕を上げたのもそのためだな。」

「だけど、ほかの理由だってあげられるかもしれませんよ。」

「そりゃそうさ。誰かに手を振るとか、キリンに餌をやるとか、脇の下をスウスウさせているとか……」

「だけど、最も良い理由を考える時間なんてありませんでしたし。」

「選んじゃいけない。自分の心(※)を信じろ。最初に浮かんだアイディアを受け取れ。もう一度、悲しくなってごらん。顔を悲しいときの位置にして、涙をこらえてみて。もっと不幸せに、もっと。さ、君はなぜ今そういう状態なの?」

「私の子供が死にました。」

「それ、考えて作った答え?」

「ただそうだとわかっただけです。」

 

※訳注:ここで使われる「心」は、原文の「mind」の訳である。この「mind」の意味としては「(身体と区別して思考・意志などの働きを表す)心、精神、(感情・意志と区別して、理性を働かせる)知性、知力、精神の正常な状態」であり、ただ心を示すだけではないが意味的には心が一般的だと思い、そうしている。ちなみにOxford languageでは「経験や世を認識、嗜好、感じることを可能にする人の要素。思考と意識する能力。」となる。

 

 「腕を上げる」という行為や「悲しくなる」ということと俳優からの説明、「電車のつり革を掴むこと」や「子ども死」のあいだには、ジョンストンが説明していない何かが起きている。それは彼がその過程に関して意識していなかったわけではなく、そのことが彼には一切の説明を必要としないと感じるくらいあまりに明白なことであったと私は信じている。彼の役割に関して我々が理解できる示唆としては、受講生への「自分の心を信じなさい。」という励ましである。生徒の「マインド(精神・心)」と「身体」には明らかに乖離があったが、彼が言おうとしていたことは想像力が身体によって呼び起こされ活性化される方法だったと思う。結果としてまずは「地下鉄のつり革」、次に悲しみが子どもの死の結果であるのだというある知識につながっていく。

チェーホフが想像する体について話していたとき、このことを意味していたのだと私は信じる。この事実が起こった後、ジョンストンの記載したこの例に色々推測を立てると、生徒の頭の中で起こるプロセスは次のような過程を辿ったのではないかと示唆したい。腕をあげる、もしくは悲しくなった瞬間に起こった出来事の原因について俳優にされた問いへの答えは、現在でも過去でも論理的でもない。唯一俳優が頼みの綱とできるのは、ジョンストンが提案した腕を上げることや、悲哀の動作(悲しいときのように頭を抱え、涙を堪える)を経験することに表れる想像力のロジックである。体と想像力との共生的な機能について私が理解するところでは、腕を上げることで、それがたとえ一瞬だとしても、地下鉄でつり革に腕をあげるといった、記憶や想像されたイメージが俳優の心の目の前に呼びおこされる。このようにしてジョンストンの初めの問いかけにたいして十分な答えをその俳優に与えてくれるのである。同じセリフを使いながら、あごのしわを寄せて涙をどうにか堪えながら、首を片方に傾け口は開くといった、悲しいときにおこる身体的な特徴が、子どもの死体が横たわる部屋や死体安置所や道端といったイメージにすぐに火をつける。これはジョンストンの二つ目の問いかけの答えを彼女にあたえてくれるのである。どちらの場合においても、身体的動作が完全に想像、または記憶であったイメージに火をつけ、答えを与えてくれたのである。

 

 この例を終える前に、特筆すべきさらに三つの因子がある。その全てはこうした過程において重要な役割を果たしているのである。第一に、イメージの出現の強力な触媒となる「刺激(incentive)」である。第二は、それらを出現させるようにする「開いていること・オープンになる(openness)」または「準備ができている・即応性(disponbilité)」「影響を受け易い・繊細(vulnerability)」ことである。外的刺激つまりイメージの出現に、とくに演じている状態において、自然な人間らしい反応をすることであると、最近は信じるようになってきた。このジョンストンのクラス場合、ワークショップという状況では俳優は共演者の前で演技するようにぶっきらぼうに頼まれ、彼女は影響を受けやすい状態になり、その結果として自分のイメージにオープンになり、さらにジョンストンの率直で容赦のない態度により、尊敬される講師より課せられた問いかけへの回答を導きだそうと、その俳優は想像力から成果を要求できるように、強い刺激を作り出されたのである。最後に、ジョンストンによりこのような問いかけで、目に見える努力をすることなしに、彼女はただ答えを「知っていた」のであった、なぜならイメージはただ頭に浮かび、ただそれは成果となる。

 

 このジョンストンのエクササイズの分析から、こうした探求において次の問いが生まれる。もし体と想像とが一体であるということが、つねに人体のなかで当然に行われている、ほぼ無意識のプロセスであるならば、(a)どのようにして職業としてパフォーマンスで使用するのに、それを磨くことができるのであろうか?(b)またトレーニングとパフォーマンスにおいてそれらの働きには違いがあるのであろうか?これら両方の段階での現象を探究するために私がワークショップや演技クラスで使う、エクササイズの流れを簡単に見てみよう。それはそうした現象に意識的な体験とパフォーマンスに向けてどのようにして鍛えうるのかの示唆を与えるために行っている。ライブで行われるエクササイズを文字であらわすことは、常に難しいことであるので、これらのエクササイズを実際に行うことを勧める。それはそれらのエクササイズが与えてくれるものをより明確な経験をとおして理解を得るためである。それを行うのに小さな空間が必要なだけで、特に道具は必要ではない。そして実際に大きな満足が得られる。

 

 俳優として自分の経験の初めの頃、後にすべてのトレーニングの基礎となるある一貫したプロセスがあることを気づき始めた。その中の主なことは、日常的な嗅覚や触覚や嗅覚の刺激が視覚的なイメージを呼び起こし(ここでは実際の視覚は外すことにする。より高度な形式の学習以外、明らかに我々の目的にそぐわない。)、そして稽古を通して、意識的なテクニックになりえるという事実である。クリエイティブな仕事にかかわっているとき、このことはとりわけ「非日常な」生活に関しても言えることである。もしその理解に加えるなら、「視覚を遮る」「目を閉じている」エクササイズのように、視覚的な刺激が欠如した状態では、動物の防衛機能が機能するため、イメージを生成する能力は何百倍も強くなる。暗闇の中で何かに触れた時、私たちの想像力は差し迫った危機に対して十分な警告を送るために、頭の中の目前にイメージの濁流を送ることで人体を防御しようと、身を固める。同じことが、暗闇の中での音やにおいにも起こる。マインドのその他の機能と同様、荒々しく魅惑的な想像から、刺激の元を穏やかに認識することまで、こうしたプロセスも光のスピードで行われる。これらの仮説は、第一に問いの範囲を限定し、第二に学習するために身体/想像力(body/imagination)の経験を強めてくれる有益なツールを授けてくれる。

 

 この過程において初めのエクササイズは次のようになる。「敷居をまたぐ」ことで稽古場に入り、準備できる状態になったあと、俳優は目を閉じたままスペースに座り、音に耳を澄ませる。想像力についての防衛機能についての先の説明をされたのちに、稽古場に聞こえる一つの音を選び、その刺激の結果として頭に浮かぶ初めのイメージをつかむのである。言い換えれば、私がここで求められることは、想像力の助けを借りて音の出どころを突き止めることではない。例えばプラスチックボトルが潰されている音を聞いて、小さなプラスチックボトルが潰されているのを見るのではなく、知覚して真っ先に音が呼び起こした初めの、生まれて、まだ不安定なイメージを掴むということである。例えば、音の特定をもとめ、データベースを必死に探して、きわめて詳細な視覚的なイメージを使った俳優の想像力は、その音が木で縁取られた書斎に火が燃え広がっている急速な進行からやってきているというのかもしれない。そのパチパチとなるような音は、炎に包まれた木が弾けていることとして「見えて」くる。俳優は意識に浮かんできた像のまわりを動くことによって、まだ不完全な初めのイメージを扱うように要求され、それは自分にとってその像全体の「情感をもった」詳細なもとにたどり着くまでである。その詳細というのは、初めの音の刺激と関係して自分を満足にさせるのである。それらが十分な詳細にたどり着くとすぐ、「画面を消す」ように指示をされるのである。言い換えれば、その初めのイメージに関して納得したので、頭からそのイメージを取り除かなければならない。そうすることで、聴覚による新たな刺激とそれに呼び起こされる新たなイメージへの準備をするのである。何度も空っぽの画面に立ち返ることで、その都度聞く音が全く新しいイメージを刺激し、その前のイメージの「ストーリー」を選ばないようにすることを確かにするのである。

 

 これは意識を拡張し、当たり前だと思っているそのメカニズムを意識化するという、とても基礎的なエクササイズなのである―つまりそれは想像力のなかの連想する能力である。このまったくの「集中した」経験を持つために、余計な体の「ノイズ」を静めなければならない。しかし演劇は動きの意を含んでおり、この意識を次の段階に持っていくためには、体のこうした経験を理解しなければならない。前のエクササイズで聴覚の刺激により視覚的なイメージが役者の意識に呼び起こされたように、役者の体にフィジカルな体を合わせことによってもたらされる触覚的な刺激でも同様の効果をもたらすのである。

 

 このエクササイズでは、彫刻と彫刻家になる二人の役者がいる。彫刻となる役者は目を閉じ集中し、リラックスした状態で立つ。彫刻家となるもう一人の役者は、相手の役者がリラックスして集中した状態で落ち着くまで待ち、上半身、頭、四肢、手や指、顔の表情にいたるまでランダムな位置に配置するようにその役者を「彫刻」する。ストーリーを語ってしまうようなポーズ(祈りをささげる、お辞儀をする、脅すなど)を作ることは避けながら、こうした彫刻でのランダムにすることは、きわめて重要なのである。それは、体の想像的な「解釈」は彫刻家の人に完全にゆだねられるからである。役者の助けになるように、私は彼らに彫刻を無限の身体の組み合わせになりえる、「関節のついた手足のランダムな集まり」として彫刻の身体を見るように声掛けをする。また彫刻家は、最終的な成果や、その彫刻がどんな物語や状況に立たされていたり役割を持っていたりを考えることなしに、彫刻をする役者の体を動かしたり、調整したりするようにしなければならない。彫刻家はその作品を完成させたら、彫刻に質問を投げかける。それは、そのアイデンティティ(「あなたは何者なのか?」))、場所(「あなたはどこにいるのか?」)、衣服(「あなたは何を身に着けているのか?」)、時間などである。しかし精神的・感情的な説明描写(「どんな感じがするのか?」)や、彫刻家の想像力に直接的に関係ない詳細を加えることになりえる提案を控えるように気遣いながら行う。彫刻に「何色の靴を履いているのか?」という質問で、彫刻の足に光るような黄色でつま先のとがったクロコダイル革の靴を履かせることになるかもしれない。それは初めのイメージにはなかったが、一旦問われるとどんどんと取り入れ行くことになる。質問を言い換えて、「足元には何がある?」と訊くことで、彫刻にさらなる選択の自由を与え、「はい、血がついた包帯が巻かれている。」といった、まったく思いがけない正直な答えが引き出せるかもしれない。

 

これら二つのエクササイズは静的であり、体/想像力(body/imagination)との共生についての基礎となる事実を示してくれる。初めのエクササイズでは座ることで体が使えず、「動いている」ものは想像力だけである。二つ目のエクササイズでは体を使って、想像力を静止した「彫刻」に用いたのである。こうした共生についてや、ライブパフォーマンスにおいてどのように機能しているについて骨を折りつつ理解にたどり着くために、動きや変化を加えることで、こうした一連の流れの次のエクササイズに移行するのである。この彫刻/彫刻家のフォーマットを使いつつ、ルールを少し変える。彫刻と彫刻家との間に身体的な接触がある限り、言い換えれば「彫刻すること」が行われている限り、目を閉じたまま俳優は、彼の想像力に浮かぶイメージに従わなければならない。彫刻することが止まったらすぐに、彫刻は接触が止まった瞬間に見つけたある特定の身体/キャラクター(役)のディテールの全てを

声に出して関連付けをすぐに始めなければならない。自分は何者でどこにいるのか、何を身に着けているのか、いつ頃なのか、周りには人や物があるかなどである。彫刻家は彫刻を続け、接触を新たにする―ちなみに彫刻家はいつでもこれを行ってもよい―、その際彫刻は話すことをやめ、体の新たな動きによって刺激を受けたイメージにもう一度集中する。このように、もし彫刻が想像力を自由に漂わせるようにすれば、彫刻することが止まるごとに彫刻は全く新しい身体/キャラクター(役)についての口頭での描写を届けてくれるであろう。このエクササイズの重要な要素は、彫刻の身体に起こる変化の程度を徐々に減らすことである。つまり人差し指の先の角度を、直線180度から少し曲げた150度に小さく変化させることだけで終わるかもしれないということである。そしてまた彫刻に働きかける変化の速度を徐々に上げていく。このようにして、かなり短い時間内に、10‐15秒毎ぐらいで彫刻家は彫刻の身体に最小限の変化を加えて、その間に彫刻は瞬く炎の影響や、たとえ一回数秒間であっても、彫刻が具体化した身体/キャラクター(役)の流れにのって、伝えることで、想像力に浮かんだ本当に僅かな変化も気づくようにするのである。そうした現象がどれだけ魔法のようだったとして、実際は大変なワークである。このアクティブに彫刻をするこの簡潔なエクササイズの最後には、しばしば彫刻側の役者は能動的にとても集中して想像力を使う懸命な取り組みで汗を垂らすのである。

 こうしたエクササイズの実質的な結果はほぼいつも興味深いものである。時間がとても短い中でとくに何も起こっていないがどんどん短く、そして素早く体がフィジカルに変化する中、彫刻をされる俳優はさまざまな体やキャラクターのほぼ際限のない流れを自分の姿勢の内に見出すことができ。そうした変化がどれだけ小さかったとしてもまったく異なる体やキャラクターを想像力の中で作り出す。さらに、俳優も実際に身体と想像力の共生の確かな「証拠」に触れることができる。彫刻することが止まったときに、静的な彫刻の形だけでなく、彫刻されている最中でも、体に起こるすべての変化は、とても多くの身体/キャラクター(役)を生じさせる。だがそれはあまりにも多く、実際のところそれをすべて知らせる時間をもてない。

 

 彫刻の体におこる変化の速度を考えれば、男や女がその瞬間に異性、子ども、巨人、老人であることを発見しても驚くことではない。それは想像力が体のある特定の調整に反応し与えたものなのである。そして同様に目を見張ることは、こうした体に伴う細部にわたる描写の多さである。それはイヤリングから靴紐まで至る衣服、人があふれる道の隅にあるひび割れに至るまでの場所、言うまでもなく自分の「視界」に映る自分のまわりを通り過ぎる人の細かな描写までのぼる。動く体が自然とイメージを呼び起こすという明らかな主張を考慮に入れれば、私にとって最も驚くことは、私が無作為に一人の俳優を選び初めて行ったエクササイズを紹介する際、キャラクター(役)を素早く、そして一見際限がなく変身させる能力は観ている人から熱狂的な反応を呼び起こし、それは他の俳優たちがまるで素晴らしい想像力の気味合を垣間見せてくれた俳優を祝福し、豊かで柔軟な想像力を使ってそのエクササイズで最高のパフォーマンスができる、そのグループのその俳優を選んだ私を祝福しているようであった。しかしながら私の経験上私がどの俳優を選んだとしても、その俳優は同じように素晴らしいパフォーマンスをしていたと確信しる。なぜなら体/想像力とのつながりは普遍的であり、サイコフィジカル(心理・身体的)構造の必要不可欠なパートであり、チェーホフが提起したように、フィジカルな体からの刺激から起こる創造的身体に絶え間ない流れ、たとえどんなに小さかったとして、避けがたいものなのである。

 

 これらのエクササイズについては、対となる体/想像力に直接つながらない観点がいくつかある。しかしそれらは俳優の実践的な想像力についての総合的な検討をしたうえでの重要な副産物であり、ここで行われているプロセスの理解を高めてくれる。まず第一に、これら多くの関連するエクササイズにおいて、学びうる重要な教訓は、トレーニングを通して創作活動において意識的に想像力を伸ばすこと、コントロールすること、使うことの方法を学ぶことができるという事実である。例えば音を使った初めのエクササイズで、「情緒的な詳細」を探すことは、一つの音によって呼び起こされた絵の中を「動き回る」ことも含まれている。そして第二はトレーニングを通してこうしたものが習慣になったとき、創作活動を刺激するイメージを受け取れるように、想像力を助長すること、「かき立てる(push)」ことを学ぶのである。最後のエクササイズにおいて、彫刻の体の姿勢が数秒ごとに変化するとき、想像力から成果を「求め」、得るための普通にはない力を授かることを発見する。エクササイズからテクニックまで昇華させることで、役や芝居空間で一瞬一瞬を存在することへの想像的なアプローチを伸ばすための、非常に重要なツールを俳優にくれるのである。

 

 一旦、こういったエクササイズを通して、これらの現象の基礎的な理解を得られれば、パフォーマンスをする状況にあっても体/想像力(イマジネーション)の共生が常に活動していること、意識的につかえるツールとしてそれをさらに伸ばす方法が尽きないことに気づくのに時間はかからないだろう。私のイメージワークトレーニング(デービィッドの書籍)

では、エクササイズのこうした基礎的な順序のあとに、身体的な動きと俳優の想像する機能の相互的な性質に基づくさらに複雑なワークが続いていく。最終的に、ちゃんとした環境が整えば(「敷居をまたぐ」、集中力、リラクゼーション、柔軟性(disponibilité)、身体表現における高等トレーニング)、「アンカーイメージ(直訳『錨のイメージ』)」(ボール、ロープ、靴といった具体物、想像力がもたらす創作されたイメージ)を基にした20‐45分の抽象的な身体的な即興ができる俳優たちのダイアローグは非常に豊かなものになる。このアンカーイメージは、フィジカルな動きを使うことで意識に湧きおこる無数のイメージへの扉を開いていき、そしてそのイメージは身体に数々のフィジカルな表現をもたらしてくれ、またそのフィジカルな表現はさらなるイメージを呼び起こし、こうしたことが回転木馬のように永遠に続いていく。どれくらいこれが続くかは役者の体力か、イメージや動きに想像的に反応できる集中した状態をどれくらい維持できるかという役者の能力次第である。集中したフィジカルなワークを45分間も行ったら、俳優はガス欠になるか、身体的に続けれないだろう。もしくは様々な理由によって集中力が瞬間的に途切れてしまい、これにより想像力と身体と豊かな交流に邪魔が入り、深い意識から自意識にひきもどしてしまって、エクササイズの最後を迎えてしまうことになる。一旦テキストが加わると、体/想像力についてのこうしたエクササイズのさらなる発展が必要になり、「想像する体」についてのすべてのコンセプトはパフォーマンスで使われることになる。

 

 

トレーニングとパフォーマンスから一つずつの例で、これに関してさらに説明することになる。1999年にイストラ半島にあるグロズニャンという風情のある小さな村で、演技学校の生徒とプロの俳優の混合グループに向けての行ったワークショップの際、最後にはプラスティック(plastique)と呼ぶワークになる、「クリエイティブウォームアップワーク」としてのイメージワークトレーニングに書かれていることを行った。それは抽象的な動きの連続からまとまった動きのかたまりを俳優は抜き出し、その動きに対しての興味がある限り、正確に繰り返す。このトレーニングの課題は、選んだプラスティックの反復をきわめて詳細に、また同時にまったく新しい経験にするために、体を想像力の間にあるアクティブなつながりを継続させることである。このエクササイズの事例では、そのワークショップのオーガナイザーであった、とても才能あふれるクロアチアの俳優スザンナニコリッチ氏は極めて簡単なプラスティックを見つけた。床に座って、足は自分に引き寄せ、手の平は下にして左腕に床において、最大限の正確さで、彼女は右手親指を短いブロンド色の髪の毛の下にし、持ち上げ、右耳に掻き上げるのであった。他の俳優が自分のプラスティックを終えて座って、彼女の動きに気がついたとき、そのときもうすでに彼女はおそらく10分程度プラスティックをやりつづけていた。その時からワークショップでただ一人、私たちが彼女の強い集中力の力強い表出に驚き、魅了されてそれを見つめる中、彼女は25分程その簡単なジェスチャーを繰り返し続けるのであった。そして彼女がワークショップを止めているかもしれないと心配になり、彼女は動きを止めるのであった。その瞬間自然と拍手が起こり、私も喜んでそれに加わった。その過程について問われると、彼女は、体の僅かな動きと想像との対話がとても力がみなぎっており、プラスティックをおこなうたび、細かくどう行うのかを伝えてくれる色んなイメージを、色んなコンテクストにおいて、色んな目的で行動をすることで、彼女は全く違う世界にいたことを私たちに教えてくれた。その結果は一つ身体的行動による考えられないような25分間の「パフォーマンス」であり、それによりきわめて力強く私たちは彼女のワークに引き込まれたのであった。

 

 リハーサルとパフォーマンスで使われるボディ/イマジネーションのテクニックは2段階で機能し、初めのリハーサルでのことが、次のパフォーマンスへと流れるように続いていくようになっている。しかし両方ともが体/イマジネーションの共生を現場でも使える強力なツールにまで昇華するトレーニングにかかっている。リハーサルにおいて、これらのテクニックはパフォーマンスの内的な真相/譜面(inner score)の探求に関係しており、俳優として芝居中の瞬間へつながる想像的なカギを発見するために、パフォーマンスをする場所で体によって創られたイメージにすぐに反応できるように(または逆もまた真『つまりイメージよって体の在り方が作られる』(鍵括弧部分は訳者補足))、稽古の過程の間ずっと準備ができるようにしてくれるのである。同様に、すべての稽古プロセスが俳優から俳優へ、俳優から演出家へ、演出家から俳優へ流れる体/イメージの続く交換になるのかもしれない。究極的に、イメージはパフォーマンスの譜面の音符として配置されるのである。これを証明するため、2002年、ルーマニアのクルジュにあるハンガリー国立劇場で私が演出したユダヤの芝居“Dybukk(ディバク)”(東欧のイディッシュ文化において信じられる悪魔憑きを行う悪霊)の作品を例にしよう。

 芝居の内容は、亡くなった最愛の旦那の霊(ディバク)に若い女性の体が憑りつかれてしまい、芝居のクライマックスは彼女からその若い男性の霊を取り除くという激しい除霊式である。その除霊の場面はもっともらしいように演じるのは極めて難しく、同僚であったMiriam Guretzkyが同作品のために制作した横長の舞台では観客との距離がほとんどないに等しく、これによってさらに難しくなった。リハーサルが始まる前から、私は大変幸運なことにLeah役に、イメージワークトレーニング(ImageWork Training)を受けた素晴らしく才能の溢れた女優Imorla Kezdiと彼女が所属する劇団の2,3名の俳優を持つことができた。リハーサルの過程で、イメージワークトレーニング(ImageWork Training)に基づいて、Imoriaは身体/想像力の楽譜となる、一連のイメージを作っていた。そうすることで、彼女は次第に難しくなる芝居の恐ろしい除霊の過程をやり通すことを可能するのである。いくつかのイメージは彼女の体/想像力から湧いたものであり、またいくつかはリハーサル中に私たちがした会話の中から出てきたものでありますが、すべてのイメージは同じ根源、つまり想像する体を共有するのである。

 

これらのイメージの 1 つが、私たちの目的に役立つことになる。 劇の佳境で、除霊のラビ、(先生)Reb Azriel は、伝統的なユダヤ人の雄羊の角であるショファル(shofar)の吹き方の 3 つの異なる形式を段階的に進めることによって、悪霊Hannan を祓う究極の武器をもたらします。 . 第二段階では、リハーサルでこのセリフから浮かび上がったイメージは、石が当たって全体にひびが走り、今にも粉々になりそうな窓ガラスである。 ここでの石にあたるものは、角shofarのt’ruah(*)の音程の初めに鳴らされる音であった 。 Imola/Leah のやらなければいけないことは、ガラスを抱え、それを割らないようにすることだった。 その時起こったことは、そして今日まで起こっていることであるが (この芝居はレパートリーの一つ)今にも割れてしまいそうなガラスのイメージと、それが粉々に砕けてしまわないように阻止するために超人的な力を行使しなければならない必要性が動く、驚くほど消耗する戦いです。、彼女が演じるリアが、Hannan が彼女から引き裂かれるのを防ぐために無駄に奮闘しているとき、彼女は最も痛ましい方法で体をうごかすのである。

 

このシーンは女優である彼女にとてつもない要求であったが、Imolaは綿密に瞬間にある身体的で想像的な要素を用いることができた訓練を使うことで、観ていて息を飲むほどの体/想像力の共生の芝居への実践につながったのである。私が知る限りでは、割れそうな窓ガラスの「アンカーイメージ」は4年後でもまだ役立っている。しかしながら役の彼女の演技がこの3年間で深みを増して言っているの目の当たりにして、演劇の最大のパラドックスを作るために(はじめての反復だったが)、楽譜の形式(form)をまったく正確に保ちつつも、Imolaは舞台に上がるたび無限の新たなイメージに応え、そしてその公演ごとにこうした新鮮なイメージからの深い影響を許していたことは疑いの余地のないことであった。

 

※訳注:t’ruahショファルの音の一つの名前

 

 私が鍛えた俳優によって演じられたこうした公演の成果や、文字通り世界中からの様々な演技文化からやってきた俳優や生徒とのクラスやワークショップといった状況でのエクササイズ中の演技を観察していると、私は次の避けがたい結論に辿りつかざるをえない。

 

a) 意識の表面下にあるイメージの膨大な貯蔵庫は、芝居の想像的な作業において途方もなく重大な実践で使えるリソースとなる。

 

b) 極めて表現豊かで柔軟な体、「敷居をまたぐ」、集中力、リラクゼーション、臨機応変さを通して準備することで、こうしたイメージの出現ための条件を構築することで、それらを呼び出すことができ、想像的な作業に変換することができる。

 

c) トレーニングを通して、私たちは体と想像力との象徴的な繋がりに気づくことができ、継続的に利用でき実践的な表現ツールとして探求し使用することができる。

 

 言い換えるのであれば、俳優は「体で想像する」というコンセプトは、それがどれほどミステリアスだとしても、まず第一にとても自然であり、つぎにトレーニング可能であるということである。

 

 一回限りではなく継続したこうしたトレーニングにより、私が信じる俳優としてマイケルチェーホフの素晴らしい功績の源や、彼が残したテクニックの重要な要素にまで導かれられるのである。稽古や公演中に身体的な行動によって刺激を受けたイメージに体で反応でき、そしてそのイメージを?自分の演技へと変容させる際限のない能力を得られるのである。

 

他のどのテクニックよりこの能力こそが、ミザンスの制約、照明きっかけ、音響きっかけ、芝居中の関係性と関係なく、新鮮で驚くようなイメージが糧となることで俳優に全ての公演で舞台上の一瞬一瞬をユニークで唯一無二の体験にさせるのかもしれない。

 

ジェフリーラッシュが『恋に落ちたシェイクスピア』で繰り返し私たちに言ってように、創造性は多くのミステリーを含んでいる。しかしいかなる寄る辺もなかったとしても、それを準備していたフリをすべきだというVitracの提案は、芝居のすべての瞬間を豊かにして、観客を本当に深いレベルで没頭させるために、パフォーマンスで体と想像力の強いつながりを保持するためのメカニズムを探求するきっかけとなる。

 

Michael Chekhov  Tokyo

マイケルチェーホフ東京 

 

【代表 】

秋江智文

 

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