生きた空間:空間と雰囲気についての考察

ウルリッヒ・マイヤーホーシュ

病院の庭にぽつんと小屋が立っている

イラクサ、ゴボウの花、野生の麻の花が見事にまでの森となりそれを囲んでいる。屋根はさび、煙突は崩れ、玄関の階段も腐り雑草で覆われ、漆喰の後だけが残っている。

イラクサに刺さされることが怖くなければ、小屋に続く頼りない小道に踏み込んでいき、一体中で何が行われているのか見て来てほしい。始めの扉を開き、入り口を抜けていくのである。

 

アントンチェーホフの短編小説「第六病棟」には強烈で生々しい雰囲気がある。冒頭から、イメージ、関係、音、匂いなどの宝の山が読者に挑みかかってくる。この短編作品で、ストア哲学、地上における苦悩や存在の意義といった哲学的なテーマを扱かわれ、願望や自由や報われない愛について書かれている。しかしながらこの話は曖昧な場所で行われているわけではなく、生きて呼吸している空間で行われたのだ。その空間は呼吸しているのである。20133月にFreie Werkstaff Theater Cologne(直訳:フリーワークショップ劇場ケルン)と共同制作し、舞台化した作品はこの空間について取り扱ったのである。

全ての空間や場所には、空気や光や匂いといったそこを満たす特有の雰囲気を持っている。ある人は、雰囲気は客観的なものである。つまり雰囲気は場所に張り付いていて、その場所に入ってくる全ての人物を包み、影響を与える。意識、無意識に関係なく、場所の雰囲気があまりに強力なので自然と反応してしまうものなのである。

では病棟内の雰囲気を取り上げてみよう。もちろん病棟といってもの数え切れない種類があるが、しかしながら、その本質を注目してみたとき、その雰囲気には類似性がある。

日々の生活にある雰囲気への意識に集中して、まるでそれが音楽であるかのように聴いてみよう。その雰囲気が届けるてくれる豊かさに驚くことであろう。「生きたものが現れる…中略…一つまた一つと、消えてはまた現れ、姿を変えて、動きだし、互いを求め見つけ出す。」空間が命で満たされるのである

アントンチェーホフの甥であるマイケルチェーホフは、雰囲気(アトモスフェア)を全てのパフォーマンス、全ての芸術作品の魂であると説明をした。今まであなたは、巧みには演じられ、技術的には完ぺきな芝居や演奏なのにも関わらず、感動を全く覚えなかったことはないだろうか?魂のない命は、ありえないのである。

私の考えでは、演出家としての私の責任は空間に魂与えることであり、その阻害をすることではない。空間は、俳優、舞台装置デザイナー、音楽家そこに関わる人すべてと共に、作品を決定づけていくのである。多くの私の作品ではフィンランドのデザイナーエリク・サルヴェンセン(Erik Salvesen)と仕事をした。一緒になって、私達は明らかに目に見えるものや、明らかなものを超越しえるのかを探求した。

 

雰囲気に感化される空間

 

 このエッセイでは、この作品において雰囲気で満たされ活き活きとする空間が現れたと私が感じたいくつかの観点を考えていきたい。下記の主題は、私が俳優・演出家として、作品の根幹となる指針である。

 

⑴身体としての空間

 

 私は、我々が芝居を演じる空間である舞台を、人間の身体や全ての生物の身体と同じように、生きた有機体というような集合体としてとらえている。空間は息づいており、そこではあらゆる衝動(思考、感情、意志の衝動に関わらず)が表現される。そういった空間は血やエネルギーが循環するように、思考や考えが対話のための空間を作り出す方法をうみだす場所となる。1977年ドクメンタにおいて、100日間、カッセルのフリデリツィアヌム美術館の全ての建造物をプラスチックのチューブで巻き循環させた、ヨセフボイスの「職場の蜂蜜ポンプ(直訳)”Honey Pump at the Workplace“」がある。ボイスは2トンもの希釈された蜂蜜が流れるパイプとホースを取り付けた。メインルーム抜けて、それが取り付けられた様々な場所では、芸術家が毎日社会や環境について観客と討論をおこなわれた。意見やアイデアを動くものとして捉えた、熱の循環(Wärmekreislauf)のボイスの考え方は舞台芸術家としての私達にとって重要なものである。思考は動きであり、つまり行動である。つまり、私達は舞台をその行動が重大なものにまで高められる空間として捉えることができる。それは活き活きした柔軟なプロセスなのである。その空間では、エネルギーは温もりに変化し、また空間がエネルギーに変化を加える。小規模ながら、全ての細胞は全体を代表する空間になるのである。そこでは細胞と細胞、細胞と関係、細胞とシナプスとの関係があるのである。

 俳優はこういった種類の空間を、舞台上や、建造物や空間の表層との対話や、共演者とのコミュニケーションや、俳優自身や台本や音楽との関係や、舞台上の小道具との接触に創り出している。その空間は、観客と関係においても、命をもたらしてくれるのである。それらは生きた有機体であり、そしてアンサンブルなのである。

 

⑵空間の動き(ジェスチャー)

 

 生きた有機体とした空間に関しての考えをする基盤とすることで、二つ目のポイントに触れていく。全ての生きた有機体のように、空間にも継続的な動きがある。空間は動いており、最高の状況であれば、空間は私達、役者や観客をも動かすのです。根本的な考えとして、空間は空っぽではないということであり、そこは常に動きや意志といった内的な動き・動作(ジェスチャー)に満たされている。マイケルチェーホフは心理的動作(サイコロジカルジェスチャー)について述べており、それは舞台上の役や目的や行動だけではなく、空間も生きているとした。雰囲気には意図を持った動きがあり、したがってジェスチャーを使って表現されうるのである。

 「雰囲気は状態ではなく、過程であり行動である。それは継続的な内的な動きの中に生きている。行動として喜びの雰囲気を経験してみよう。するとそのジェスチャーは開放し、拡大し、伸び続けることが分かるであろう。反対に、抑圧的な雰囲気は、圧縮され、閉じ、潰されるようなジェスチャーとして感じられるであろう。これこそが雰囲気の意志である。それによって行動し、演技をする意志が刺激されるのである。」

 2007年にハンブルクで、ブレヒト作「男は男だ」の上演中、舞台美術デザイナーとの会話を思い出す。楽譜を見るように、各々の幕や場面の雰囲気を探求した。私はほとんど雰囲気に関しての楽譜の制作中はほとんど口を挟まなかったが、代わりに、私は簡単なジェスチャーでそれぞれの場面の役を表現した。「わかったこの場面はこんな感じ(押すジェスチャーで、硬い肉のクオリティ)、中間は(抱くジェスチャー、クレッシェンドのクオリティ)で、最後は(ゆっくりした開くジェスチャーで、そして突然崩れ落ちる)だね。」私達は少し言葉を交わすだけで作品全部を通して見ていった。同じような姿勢で俳優とも稽古した。空間は動きで満たされているので、言葉よりもむしろ身体的にダイナミズムや雰囲気で説明をしたほうがはるかに簡単である。

 

心理的動作(サイコロジカルジェスチャー)とは、身体的な動作を用いることによって内的なエネルギーや感情や意志を呼び起こすもの。

 

⑶空間の音

 

 「聴きなさい!建築の内部は大きな楽器のようなものである。音を集め、それを増幅させ、どこか他の場所にそれを伝えていく。それはそれぞれの部屋の特徴的な形状、その材料の表面、その材料が使われている方法に関係している。例えばバイオリンの表層部のような美しい滑らかな面を、その部屋の床に木材を敷いてみる。再びコンクリートの表面をその床に張り付けたとしたらどうだろう。音の違いが気付くのであろうか?スイスの建築家ピーターズントーは、音の空間として言及されることがある。その空間に入った時、すぐに選別や素材の技巧が音や空間の雰囲気に影響を与えることになる。 

我々の作品は、エリク・サルヴェンセンと私は素材が本物であることにこだわった。切り出された節のある木材または安価な合板で作られたアルペンの山小屋では違うし、桜の木またはプラスチック製イミテーションの高級テーブルではまったく違う。それは異なった呼吸をする。違った音を立てるのである。

私は舞台上をピアノやバイオリンのようなしっかり調律できている楽器として捉えている。劇場はこういった整えられた調和のとれた空間で起こるのである。そこに関わるもの全員は弦を調律し、その空間に耳を澄ませなければならない。雰囲気というのは空間の客観的なムードといったものである。私にとって、それは音楽である。「第六病棟」に戻って話をしてみよう。多声音楽(ポリフォニー)のドイツフォークソングのジャンルの歌が19世紀のロシアの荒廃した病院の庭に何が共通しているものがあるのか?私には分からない。しかしながらそれはある特定の雰囲気を創りだす、強力で洗練された効果があった。この歌は全く別の世界からやってきたのである。それは壁を抜けてやってきたのか?人の口からついて出てきたのか?それは床から出てきたのであろうか?そして沈黙がもたらされる。私の意見では、それは音楽と同様。劇場においてもっとも強烈な瞬間である。そして沈黙からポタリポタリと何かが垂れる音、また沈黙、そしてすこし強くなり、繰り返される水がポタリポタリと垂れる音によっての雰囲気があり。また雰囲気のような音になる。

 

⑷空間の光

 

自分のいる場所に目を向けてみよう。どこから光は来て、どのようにそこに差し込むのであろうか?影はどこにあり、そしてその空間に足を踏み入れた時、どのように変化するのであろう?どのようにそこにある物体は光を反射させるのであろうか?その表面は輝くのか、鈍く光るのであろうか?光は空間に深みをもたらすのであろうか?このような一連の疑問はどんどんと続いていく。ズントーは「私にはこれに関して二つの気に入っている考えがあります。(…)初めの考えてというは、建築物を完全なる影の塊としてとして設計し、そしてまるで闇を掘り進むかのように、光が徐々に染み出るかのように、光を配置するというものです。もう一つは、秩序を持って素材や表面を照らし、それらが光を反射させ方に目を向けるというものです。」

舞台上で観る全てには意味がある。全ての光の筋、全て陰影、全ての色は光そのものを強調し、物体を輝かせたり(そうではなかったり)する可能性を持っている。「第六病棟」において、ガラス戸棚にピクルスの大きい保存容器を配置した。特に劇的な事はない。しかしながら、照明が、独特な方法でその部屋や患者のストーリーを照らし出すほぼ比喩的な場所にそのガラスを変化させたのである。雰囲気は空間の客観的なムードのような何かである。

舞台上では、光は物を照らし出すだけなく、人や役とのダイアローグにも入ってくるのである。私の質問は、それは俳優を照らし出すのであるのか?である。そして、それはストーリーにも光をもたらすのであろうか?illumination(イルミネーション『中を-照らすもの』)?

一般的に劇場は太陽の光とは関わりがない。なんたる損失なのか!しかしながら奇跡のようにこの損失を我々は補うことができる。それはレーディエーション(放射)ということである。

 マイケルチェーホフはもう一つの観点を話している。俳優の内的な光である。それは俳優が観客的に届けるものである。我々はこの内的な光を経験したことがある。それは高められたエネルギーであり、時として「存在感」として説明される。そして空間にある物や関係を照らし出すエネルギーの内にある源によって誘発されるのである。チェーホフはそれを放射(レーディエーション)と呼んだのである。そして俳優達には自分の内にある、エネルギーの源に取り組むように強く勧め、その源を「胸にある太陽」と呼んだのである。

 「自分の胸の内側に、全ての方向に衝動が流れでてくる核(センター)がある。その想像的な核を内的な動きの源や身体の内側にある力として想像して捉えてみるのである。この力を頭、腕、手、上半身、脚、そして足に伝えていく。〈…〉そして一連の自然な動きを行って行くのである。〈…〉自分が行う全ての動きが、内側にある想像的な核から流れでる力によって触発されていると見て取れるであろう。」実際は、それはこの核から発せられる絶え間なく行っては帰るエネルギーの潮の満ち引きなのである。

 私はここに身体的なアプローチを想像するのである、それは波動の放射ということである。その波動の放射が磁場を創りだし、それは時として繊細で、また時としてあからさまであったりするのである。放射したり、受け取ったりするこの過程によって雰囲気が作られる。その過程がアンサンブル内に起これば、それは非常に強力なものになりえる。

 

⑸空間の温度

 

 空間には特有の温度がある。私の体温のように、全ての建物や空間には、熱を持つ特徴があり、皮膚といえるその表層を通して温度や湿度が変化する。体温と空間の温度には関係性がある。「多かれ少なかれ、素材は身体から熱を奪うことはよく知られている。」ぜひ木の小屋、ガラス金属性の建築物、ペルシャ絨毯が敷かれた部屋などを考えてもらいたい。

 では楽器のイメージに戻ってみよう。それはある人は、音が冷たかったり、音が温かかったりすると言い、よく調律ができているピアノだと言い、音程があっていると言ったりもする。全てのバイオリニストは冬の寒い夜にオーケストラのリハーサル室に到着すると、適切な温度に再び自分の楽器を温めなければならないということをよく知っている。比喩的な意味において、「その温度は合っている”Die Temperantur stimmt”()=馬が合う」と我々は言う。

 

⑹味と匂い

 

人間を動かすような最も強い感覚という程でもなくても、嗅覚は強力な感覚の内の1つであろう。そしてもちろん空間の雰囲気も匂いともつながっている。かつて私が母と森を歩いていた時、もっと正確に言うなら、そこはドイツとフランスの国境周辺にあったファルツの森であった。そこは秋には様々な植物でうっそうと茂る森であった。私達は圧倒された。年老いた母は巧みな言葉遣いでその香りを表現するだけではなく、まさにその年の香りの微細な描写も行ったのである。それはオーデンワルドの森や、北欧にあるブラックフォレストとどう違うのかや、どんな雰囲気がそれらの森林地帯にあるそれぞれの独自性を際立たせているのかということである。彼女の口ではどのような味が広がっていたのであろうか?私はとても感銘を受けたのである。母はその香りに気付いただけではなく、私も嗅いだはずだったその微細さを全て皮膚の下へと取り込み、再現して見せたのである。

 「第六病棟」に話を戻すと、舞台上でサワークラウトの缶詰を空けると、キャベツの強烈な匂いが家の前にまで漂った、舞台監督は観客にそれを嗅がせることになることに不安になった。しかし私は「これだ!」と思ったのである。まさにこうあるべきだったのである。私とっては、雰囲気は味わうことができなければならなかったのだ。そしてそれを嗅いだのである。劇場において、私達は雰囲気を表現する強い手段を持っている。例えば共感覚によるものである。舞台上には動物が登場していないにもかかわらず、舞台でヤギの匂いがするということを観客は見るのである。

 

⑺遊び場としての空間、もしくは:散歩するファンタジー

 

 俳優は芝居の雰囲気に耳を澄ませ演じる。演技をしながら、新しい独自の雰囲気を創りだすのである。それは想像力が野生へとなった時にこういったことが起きるのである。雰囲気に全身を捧げる役者はすぐに「自分の内に起こる想像的な活動を」感じ、そして「イメージが一つまた一つと自分の前に現れて、その領域へと引き込まれていくのである。こういった(雰囲気の)意志は、それ自体を生きたものや、出来事や、言葉や、動きに変えていくのである。」も感じられるのである。

 これは俳優の創造性を解き放ってくれ、創作の雰囲気を呼び起こしてくれる。私の役割は、俳優たちが、怖がらず、どんな「イメージや生きたもの」が自分たちに語りかけたことを試していける空間を舞台上に作ることである。この遊び場というイメージはここでは当てはまっている。俳優は演技することに身を投じ、子どもたちがするようにリスクをとっていくのである。俳優は椅子の上で逆立ちになったり、滑り下りたり、ブランコからも落ちたり、楽しく失敗することができたのである。

 私の仕事は、俳優たちが遊んだり、演技ができたり、そして観客の想像力も一緒になって遊べる空間を作ることにある。その空間は変化を促しているのか?それはファンタジーを開いていっているのか?

 「第六病棟」において、演出家と舞台監督との間に興味深い口論が起こった。ある稽古の始まり、エリクは素晴らしい遊具でその空間を埋めてくれたのである。それは楽器、天井からつるされた服、ピクルスが入った容器、絨毯、古い椅子にベッド、黄色く変色した新聞の山、キャベツの入った容器に、鉄製の食器などが地面や泥だらけのキャビネットに広げられた。病んだ病棟の強い臭気。そして数えきれない遊び道具!これは俳優にとっては至福である!

 稽古の初めの二週間は、有り余るほどの衝動は俳優にとって宝箱であった。しかしある時、私はそれらが俳優を溺れさせ、麻痺させていると気が付いた。ある朝私は舞台上の4分の3の道具を禁止した。なんとすがすがしいことか!空っぽ。その時突然呼吸ができるようになったである。俳優たちは再び動き始めた。病んだ病棟で起こる話の視点が遮られなくなった。

 シーンに決定的な色合いを持たせた水をポタポタ垂らした桶といった、いくつかのものは作品に戻ることになり、また決して戻らないものもあった。それらの道具の数々は、新しく、決定的なものの創作のための空間を作ることとなった。

 空間は新発見への旅路へと誘い出してくれるのだろうか?私のファンタジーを漂わせておくことができるのであろうか?

 

⑻空間のスピリチュアルさ(精神性)

 

 前の箇所で私は遊び場としての空間ということについて話しをしてきた。そこでは役者が自律的な存在として空間を生きたものにする想像上での「ファンタジー的な形」の表出、つまり形態 ”gestalten” を自分に提示するのである。ゲーテがファーストで言及した「揺れ動く形」に似て、それらの存在は我々を導き、役者に語りかけ、所有し、内から外へと形を変えてしまうのである。

 そして私は自分に、実際の舞台はその存在に開かれているのであろうか、それともその道に立ちふさがっているのであろうか、ということを問うのである。私の意見では、空間はそれ自体を失わず、こういった想像の存在にゆだねてしまうことができるのである。これこそが空間の魔法を作ってしまうものである。自身を変化させ、また変化させられ、したがって「さらに」へと開いていけるのである。アンサンブルとして私達が作り出す空間は、理想的にはこの「さらに」を有しているのである。壁の向こうには何があるのだろうか、そこにあるものの向こうにはどんなユートピアな島があるのであろう?その空間はどんなミステリーを有しているのであろうか?

 「第六病棟」において、私達は密閉された空間で演じるのである。小さく、制限され、窓や扉もないのである。抑圧的な雰囲気と同様に、親密でありながら、ある種の「ホームレスの家」という雰囲気を与える。そこにある穴だけは、いわば「超越の窓」というべきものなのである。

⑴エリクが描いた風景が掛けられているが、それが景色、写真、実際の窓を表しているのかどうか意図的に判別できないようになっている。

⑵正面の上手に聖母マリアの象徴的な像がある。そのキリスト教の象徴は「超越の窓」というものであり、また確かな希望の象徴でもある。これらの「窓」は病んだ病棟の全体を超えてくれるのである。

 

グロモフ:窓の格子を見ていると暴力での昏睡や苦痛の一瞬一瞬を思い出すよ。決して外には出してくれない。ここで俺は腐っていくんだ。

 レーガン:牢獄や精神病院っていうのは実存するのよ、だからこそ誰かがそこにいなくてはならないのよ。

 グロモフ:冗談を言っているんだろ。けれど君だって信じているんだ、素晴らしき日が訪れることを。新しき人生の夜明けが輝き、真実が勝利し、そのときに時代が私達に舞い込んでくるだ。けどその前に俺はここで朽ちていく、しかし俺たちのひ孫たちがそれ目撃するんだ。私は心から君を向かえ、喜ぶよ!前へ進め!神のご加護を!格子の向こうから祝福しているよ!真実が生き永らえよ!

 レーガン:真実夜明け彼らはまさに最後の時まであなたをこの棺桶に入れておくのよ。釘を打ち付け、墓穴へ歩折り込むのよ。

 グロモフ:不死身だったりして。

 レーガン:夢みたいなことを言わないで。

 グロモフ:俺は生への渇望で一杯で、気が狂いそうなんだ。生きたい、そう生きたいんだ!夢をみると幽霊が出てくる。そして人が私の下にやってくる、その声や音楽が聞こえる。それはまるで私は海の海岸や森を歩いているようなんだ。

 

 どんな舞台空間がこういった会話を内包しているのか。願望と絶望がぶつかり合う場所であり、必ずその空間は「さらに」繋がりうる可能性を感じさせるのである。私達は、その「窓」を使うだけでなく、けっして叶うことのなかったリーガンの愛の営みを表した影絵や、先ほど述べたピクルスの瓶でこの空間を作ろうとしたのである。準備された考えはその中を泳ぎ回ったのか?まだ未熟だったのか?またはピクルスでしかなかったのか?過去だったのか?未来だったのか?

 私は空間には独自の精神性があると信じている。決してそれが明らかに私達に開かれているというわけではない。しかしながら、目に見えている空間が世俗的なようでも、その雰囲気は存在し続けるのである。その生きた空間は舞台の中で充満する力に耳を澄ませ、その内に現実を運び、同時にその力も超越するのである。それは主題になり、また主題でなくなり、場所であり、また場所でなくなる。またけっしてまだ表れていない場所にもなりえる。場の本当の可能性とは、「全ての人間が子ども時代に垣間見た何かである。誰もまだ行ったことのない場所や、なったことのない状態。そしてこの何かの名前は『ふるさと(Heimat〈独〉)』である。」(エルンスト・ブロッホ).

 

 

※エルネスト・ブロッホ(Ernest Bloch, 1880724 - 1959715日)はスイス出身のユダヤ人作曲家・音楽教師。アメリカ合衆国で活躍し、主に門弟を通じてアメリカにおける戦間期の新古典主義音楽の興隆を後押しした。

 

Michael Chekhov Studio Tokyo

マイケルチェーホフスタジオ東京 

 

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秋江智文

 

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